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社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130周年①「創業以前」 (平成30年4月1日号)

取締役社長 吉村 直樹

一.詩儒 吉村迂斎
「三十六湾」
三十六湾湾接湾。
搏桑盡白雲間。
洪濤萬里豈無国。
一髪晴分呉越山。
(七言絶句)

長崎湾は、湾に湾が接して、三十六もの湾がある。
日本国(搏桑)の西の涯。白雲の間に尽きる所だ。
万里も続く荒波の彼方に国がある。
晴れ渡り、くっきりと一筋の髪の毛のような水平線の上に、呉と越(西暦九〇〇年代に中国で栄えた国)の山が見える。

「日本外史」で著名な江戸時代の思想家頼山陽(一七八一~一八三三)の代表的な漢詩に影響を与えたとされる迂斎の七言絶句(七文字四句の詩)である。 江戸中後期の南画家、著述家として有名な田能村竹田は、迂斎について次のように記している。  「迂斎は姓吉村、名正隆、字士興、初め紫溟(しめい)と号す。深く経史に通じ、詩文詩令、善からざる所莫し、最も鎮(長崎)の後頸(かなめ)たり」

「読書」
白頭猶下読書帷。
剽窃陳篇費苦思。
愧我不如朽腐草。
化為螢火幻神奇。
(七言絶句)

しらが頭で読書に耽っている。
陳腐な駄文に悩まされている。
まるで朽ちた草が、螢となって怪しげに光っているようだ。
恥ずかしい。

「春」
韶景中。
枝枝幾点紅。
摘来春満袖。
意未窮。
更憐花裏双胡蝶。
舞春風。
(塡詞・歌曲)

春ののどかな景色の中に、
あの枝この枝に幾つかの紅が見える。
摘みとって来ると、袖に香りが満ちている。
心はまだ癒えぬが、
花のかげに二羽の蝶の、
春風に舞うのが愛らしい。

 「迂斎の詩を通じて流れるものは、一種の浪漫主義とも言えるし、自嘲と言えば自嘲とも言える。」(栄吉、著者父)

 「蓋し(多分)塡詞の盛んなるは迂斎翁に昉まる。曽って聞く、菅茶山翁(儒学者・漢詩人)亦此の諸作を閲べんと欲せしと」(小畑行筒「詩山党詩話」・陸奥出身の医者、儒学)
 「迂斎は謂わば長崎の領袖である。田能村竹田が迂斎に驚いたのも当然で、その詩風はいかにも竹田の好きそうな調べである」(神田喜一郎博士・元京都国立博物館館長)

「飛行船」
和蘭(オランダ)の奇巧 思い超然。
重載して穏に浮かぶ、霄漢の船。
叶納(息を吐く)風有り 橐籥(ふいご)に随う。
往環水無く 雲烟を度る。
乍ち疑う 五里遥かに鷁(想像上の水鳥)飛ぶかと。
羨まず 太虚(万物の根源)軽やかに仙(仙人)歩むを。
我巳に多年 帝座(星座)を懐う。
駕し来たって縹緲(はるか遠くまで) 天に朝せん(向って行く)と欲す。
(一七八九年 七言律詩(七文字八句の近代詩))

「飛行船の序文」
 「オランダ人が飛行船の図を奉行に献じた。空中に浮ぶ大船のごとくして、フイゴによって風を 送れば浮かび、風を洩らせば降りる。傾覆墜落のおそれがない。自分(迂斎)は最近これを見たが、その期間の巧妙なること千古無比だ」(栄吉訳)

二.長州長崎藩邸御用達
 前出の吉村迂斎は江戸中後期、今から二百年前、田沼意次時代に生きた人で(一七四九~一八〇五)、筆者から五代先祖になる(迂斎一七四九年生まれ、筆者一九四九年生まれ)。歴代長崎詞壇の先駆、高暘谷が作った芙蓉詩社を引き継ぐ形で学舎同聲社を起こし、長崎を来訪する全国各地や遠くは清国からの文人、儒者、役人、商人達と交流し、七百七十六首の漢詩と七十三編の漢文を残した(栄吉の発掘)。
 同時に迂斎は、長州長崎藩邸御用達としての顔も持っていた。父母は、利兵衛、菊、妻は繁と言い、その先祖は長州出身と思われ、代々御用達を拝命していた。
 御用達とは、邸内に住んで元来町人でありながら氏姓を名乗り、士分の格式を持って雑務全般を取り仕切る役目だ。藩邸そのものは公には領事館であり、私的には情報機関で、特に長崎は対海外との折衝窓口としての役割も持っていた。
 迂斎は十八歳でその任につき、五十七歳で没するまで約四十年間勤め、その後も代々吉村家が世襲した。
 明治維新の父とも称される吉田松陰は、その著「西遊記」の一八五六年の九月~十一月の頃に、迂斎の孫にあたる年三郎を三度訪ねる記載が認められる。そして、幕末1865年の幕府軍による長州征討により、長州藩邸も壊滅し御用達の終焉を迎えた。
 マリンフードの創業者吉村又作は、更に下って年三郎の三男に当たるが、又作青年時の苦難は、幕府による長州藩邸の取り壊しに端を発する(又作当時七歳)。