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社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130年⑤ 「第二次世界大戦前後」(令和元年8月1日号)

取締役社長 吉村 直樹

大正12年・栄吉ノート

一、文学青年・栄吉
「音なき残骸」
華やかな産卵のぬけがらは
羽根をふみ伸し
頭を地にすりつけて
音もなく地上に伏した。
その羽根は赤く
その胴はあいであった。
乱舞と狂観の夢は死に
その幻しと見果てぬ夢は
音なき残骸を飛びめぐった
─── 春の疲れに蝉は死んだのか

「女の話」
私小さい頃お針やったのよ
そう十六の年だわ
その頃はそりゃあ
羞ずかしがりやだったの
男と一緒になんかなると
直ぐ真赤になっちゃって
そして今は?と聞かれた時
女は馬鹿と叫ぶ代わりに
今は?
と澄まして繰り返した。

大正12年・栄吉22歳(水戸高在学中)

「雨」
質屋の屋根の鬼瓦は
三百年の苔を持っていると云う

雨の降る暮春の午後
ここに一人の婿さんが来ると云う
外から帰って来たその処女が
蛇の目を傾けて
ふと鬼瓦を見上げた時
おかしな事に
娘の口が一寸歪んだと云う

「私しが街を歩いた訳」
私しは好んで街並みを歩いた
海岸も嫌いではないが
ひょっと日暮の営みに
町家の美しいおかみさんに
逢われやしないかと思って

 マリンフードの初代社長吉村栄吉は、明治三十四年(一九〇一年)五月二日、東京市牛込区富久町で吉村又作・ノブの五男として生まれた。早稲田中学に入学するが、在学中に母ノブを失った。
 父又作の希望で、蔵前工業高校、一高理科を受験するがいずれも失敗して、二十歳で水戸高校文甲に入学した。生来、理科系は不得手で文科系の人間だった。

昭和12年10月・栄吉出征の日、前列中央の老人は父、又作

 在学中は同人誌「影の人」、詩誌「詩聖」、「校友会誌」に参加し、大正十四年(一九二九年)二十四歳で東京帝国大学文学部英文科に入学した。翌年支那哲文科に転科しているが、経緯は不明である。大学でも同様に同人誌「文芸精進」「黄表紙」に参加し、精力的に投稿活動に励んでいる。
 昭和四年二十八歳で大学を卒業。この直後、驚いたことに現役招集で陸軍に幹部候補生として入営している。この後二回、戦後招集を受け、満州にも出征した。筆者は、生前父から戦争の話は一度も聞いたことがなかった。もっとも四十八歳離れた父と話らしい話をしたことはほとんどなかった。
 昭和五年には林コウとの間に長女敦子が出征。翌年婚姻。中央大学の夜間講師や書店弘道館に就職もした。傍ら多岐に渡る執筆活動は継続していて、「志那哲文雑誌」「食道楽」「斯文」「俳句春秋」「中国文学」「文芸通信」「支那」等に次々と文章を発表している。その多くが三十歳代であった。
 父又作の逝去が昭和十五年、栄吉三十九歳の時で、そのまま吉村石鹸工場の社長に就任するが、翌昭和十六年退任し、さらにその翌年の昭和十七年に又一郎の個人会社吉村商店に入社し、単身大阪に赴任した。

二.吉村商店とミヨシ石鹸工業
 又作と長男又一郎の確執については全号に記したが、「ミヨシ油脂(株)50年史」(一九六六年)の中に次の記載がある。「父の期待にこたえて、又一郎は高等工業(蔵前)卒業後もひきつづき父の工場に勤務した。しかし工場の運営はいぜん又作がみずから掌握していたし、品質研究などの面でも又作が中心になって進めていた。又一郎の企画が初めて採用されたのは大正七年(一九一八年)の油脂分解装置(グリセリン生産)の建設であった。......ところがこの装置は必ずしもスムーズに動かなかった。......技術水準の低い当時にあっては、初めから順調に稼働しなかったとしても、当然であったかも知れない。むしろこの時期が第一次世界大戦の終了直後で、グリセリンの需要が急減し市況が暴落したことがより大きな問題であった。......油脂分解事業は結果として失敗に終り、父子の関係も破局に追いやられ、大正八年の秋、又一郎は父と決別し実家を去った」。
 しかし、又作とその後継者と目される又一郎が一事業部門の成否によって親子の断絶に到るとは思い難い。栄吉は「吉村又作伝」の最後に次の文章を残している。
「......それは又作と又一郎の気質の相違、又作と又一郎夫妻の間の話合い不足による不和と、およびそれに加えて経営上の意見の相違と言ったものが絡み合って父からの別離となったものと思われるのであるが、それは余りに複雑であり......、両者の融和は色々と仲介する人があったにも拘わらずついに実現せず、事業上の最適の後継者は、別に三木巳之吉とともに、ミヨシ油脂工業(株)を創立して隆々の勢を成し、さらに一段の飛躍をなさんとする際、父との死別に遭った。」
 いずれにしても、又作と別れた又一郎は困窮を極めていたが、三木巳之吉との出会いがあり、二人は提携を経て、大正十年十一月「ミヨシ石鹸工業」が誕生する。新会社設立に必要とされた資本金の又一郎分担金は、名家から嫁いだ貴美子不夫人の資産を担保として銀行から借り入れられ、その支払いに充当された。とミヨシ油脂(株)社史は書く。
 二人の役割分担は、又一郎が代表取締役社長(営業)、三木が代表取締役専務(生産)であった。以後又一郎は太平洋戦争、昭和十八年の上場を挟んで二十六年間トップの座にあり、昭和二十三年二月退任した。
 後年、筆者が小中学生の頃両親に連れられて、正月にその頃宝塚に住んでおられた又一郎夫妻を数回訪ねたことがある。貴美子夫人は松平家の家柄だと母から聞いたが、品格の高さは流石で、何より年玉の額の多さが嬉しかった。

昭和18年9月・ミヨシ油脂工場内にて起立しているのが又一郎

 又一郎は、三木との新会社設立の翌年大正十一年に、既に記したように大阪に個人会社「吉村商店(現吉村油化学)」を設立していた。資金的にも満足な状態になく、その意図は不明である。後に別に大阪グリセリン(株)を設立しているが、これは又作の元で失敗した事業である。再チャレンジを期したのだろうか。しかし再度上手くいかなかったようだ。
 吉村商店はささやかなビジネスであったが、これが後に三つの大きな波紋を引き起こす。
 一つは栄吉の大阪赴任である。これがなければ、栄吉は間違いなく東京に残って文学の道を歩んでいた筈である。二つ目は又一郎のミヨシの社長退任である。戦争を挟んで業績の悪化など、退任に到る理由は幾つか数えられるが、又一郎の個人会社の存在もその一つであった。三つ目は、これはマリンフード設立の原点であり、これがなければ現在のマリンフードは存在していない。

三.戦争前後

昭和16年・栄吉 中国石門子にて

  栄吉は大阪へ単身赴任したのは、戦時のさなかの昭和十七年二月である。多分吉村油化学敷地内のあったと思われる会社寮に入居しただろう。四十歳であった。妻コウと娘敦子は東京に残している。
 翌昭和十八年三月に豊中市千歳通りに借家住まいを始めた。同月落ち着きなく間もなく第二回戦時招集で満州へ出征した。
 一方東京では、栄吉が満州へ行った昭和十八年八月に、六郎七郎は吉村石鹸工場を自発的に廃業し、ミヨシ化学に合流した。吉村又作の五十五年に垂んとする石鹸事業は、おおさかに微かな残火を残したまま姿を消した。
 栄吉は、翌昭和十九年三月無事召集解除となり帰阪したが、更に翌昭和二十年七月敗戦の一ケ月前に吉村化学が被爆し全滅した。
 戦後同年の十二月に早速豊中工業会(豊中商工会議所の前身)が結成され、副会長に就任している。工場が全壊してまだ再稼働していないと思われるが、この辺りの経緯について栄吉は何も書き残してなく不明であり、不可解である。
 昭和二十二年夏頃、東京の又一郎社長より人造バター(マーガリン)の生産計画を指示される。翌昭和二十三年九月にマーガリンの製造が開始された。練り機はボテーター(アメリカ製)なのか、戦前からのクーリングドラム方式(手造りに近い)なのか、判然としない。全滅した工場は既に復興稼働していたようだ。これらのスピード感と戦後の混乱、金繰りなどよく分からない。