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社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130年⑭「阪神淡路大震災」(令和4年8月1日号)

取締役社長 吉村 直樹 

一. 34期〜44期(1990年〜2000年)


二. 新人社長研修
 1986年に社長が「地獄の特訓」に参加した翌年(1987年)に経営計画発表会がスタートした。その7月、2泊3日の天の橋立社長研修がスタートした。初年度のこの年は7月に若手社員、10月に中堅社員対象に2回実施された。予定は2泊3日だったが、大半は3泊4日、中には4泊5日の社員もいた。食事はいずれも吉村監査役(後に会長)が担当し、買い出しや準備などは籤で選ばれた。天の橋立での研修は1996年まで10年間開催され、以後は勝尾寺となった。食事の準備も大変で、流石に往復の距離も長く、事故の発生も懸念された。  昨年(2021年)コロナの関係で実施出来なかったが、今年はその分も含めて予定されている。本年より初めて、リーダーが社長から松田常務、川村部長に変更となった。

三. ギフト事業スタート
 1987年(30周年)に事業計画書の作成発表が始まり、ともかく会社が進んで行く方向、方針が打ち出された。
 ジャンボホットケーキのギフト化は、その一番バッターとも言える。
 「地獄の特訓」から帰って来て事業計画作成が始まった後、今度は「日本経営合理化協会」を率いておられる牟田学氏が主催されている、無門塾(第3期生)に参加した(1989年)。
 1期15名で2ヶ月に1回の勉強会があり、最後に泊まり込み合宿が、富士山の麓の経団連ハウスで行われた。
 その時生まれたアイデアがホットケーキのギフト化だった(1990年)。元々全国の喫茶、レストラン向けに開発されたもので、当社の出し値は1食60円〜80円位の製品だが、これを1食200円で全国の消費者に通信販売で売ろうと言うものだった。1ケースに20食だったので4千円。大箱は30食で6千円だった。
 今考えるとかなり無茶な企画だった。営業はほぼ全員が反対した。しかし、これが今に続く通信販売部門の原点となっている。今もなお通販部門の売上1位はホットケーキが占めている。
 それから3年後(1993年)に、今に続く里親里子制度がスタートした。29年間続いていることになる。金田課長が第一期の里親を務め、濱川係長が里子の一人だった。

四. 阪神・淡路大震災
 1995年1月17日、午前5時46分発生の阪神・淡路大震災について社内報は4月1日号、8月1日号の二回に分けて特集を組み、被災社員の声を掲載している。
 当時生産部第一係に勤務し宝塚に住んでおられた伊藤富子さんの声である。
 「思いもしない、目がさめ床から出ようと思っていたら、突然ゴーと言う地鳴りと共に家が大きく横揺れし、あ、地震と気づいたが、目の前に倒れてくるタンスを見て、もうだめだと思った。ベッドにささえられたわずかなすき間のあいだで、無事逃げだす事ができ、部屋の中は、足のふみ場もない程散乱し、無我夢中で、子供達に連絡をと思い、電話を持ち外に出ると、電話は全く通じない状態。その内、娘達家族が半壊状態で避難してきた。テレビ放送で神戸、長田区で火災が広がり、息子達家族の事が気になり、連絡もとれずに何回も、公衆電話の列に並び無事だとわかったのが翌18日の朝だった。それから2日後、息子達家族の元気な顔を見る事ができ、たとえ家が半壊でも全壊であったとしても、皆がケガなく、無事でいてくれてよかった。」
 社長は丁度その時、前夜から事業計画の締め切りに合わせて徹夜で原稿を仕上げたのが午前5時だった。寝ようかどうしようかと座椅子にもたれて、うつらうつらしている時に大きな揺れが発生した。
 幸いにも土地が強固で、書棚の本一冊も落ちない程度で、家族は誰も起きなかった。テレビ放送で被害の大きさに衝撃を受け、すぐに会社に電話した。3階から水道の蛇口が破れ水が滝のように流れ落ちている、との守衛さんの報告だったが、2回目の電話はもう通じなかった。
 すぐさま車で会社へ向った。ラジオが、各地で火の手が上っている、と叫んでいた。車が会社に着くまで、頼むから火が出ていませんようにと祈り続けた。
 それから3ヶ月は毎日が戦争状態だった。事業計画書は5日間の猶予をもらい、関係箇所は新しい事態に合わせて修正した。2日後には神戸方面へ出向き被災の実態を確認した。あちこちで「生き延びたか、俺も生き延びたよ」と抱き合っている人達で溢れていた。炊き出しのお握りも戴いた。
 以後3ヶ月間戦争状態が続いた。各道路網が機能せず、原料油脂やナチュラルチーズが入って来ない。作った製品も各地へ運べない。九州や広島など、各地からトラックを仕立て工場まで製品を取りに来る有り様で、物流体制の確立のため、毎夜10時、11時までミーティングを続けた。
 工場は表面上無事だったが、地下埋設の水道管の割れが数 年後に判明したり、生産ラインのずれが次々に判明した。
 当時の事業計画書である。
 「今年の1月17日早朝に兵庫県南部地震(阪神大震災)が発生し、未曾有の惨事が阪神地区を襲った。地区のお客様や同業者が壊滅的な打撃をうけ、交通は遮断し、何よりも貴重な数多くの人命が失われた。当社の社員も、家屋の全壊、半壊、一部損傷は数多く、工場も軽微とはいえ損害を免れることが出来なかった。環境は激変し昨日とは違う今日が出現した。しかし一方、復興への動きもスタートした。当社の工場は震災3日目には全ラインが稼働し、物流体制の維持も全力で行われている。原料の確保、商品の供給、同業者への支援も始まっている。私は今ふたたび、精魂こめて、お客様に対する考え方、あらゆるサービスの姿勢、心、信念する経営思想を書く。」

五. ガーリックマーガリンの開発・発売
 1996年に発売した家庭用ガーリックマーガリン225gは一世を風靡した。それ以前にも900gのガーリックマーガリンが業務用(レストラン、ステーキハウス等)に細々と生産されていた。NBとしてではなく、各顧客の要望に応じた配合のPBとしてだった。その数は少ないながらも年々アイテムを増やしていた。生産サイドからも悲鳴が上がり始めていた。ガーリックの匂いは強烈で、一つ間違えば近隣からのクレームに直結する。
 ミーティングを繰り返しPB各種の配合を一本化することに決定し、マリンのNBとして発売した。丁度その頃同業者から家庭用225gの充填ライン譲渡の話が持ち上がった。当社の手狭な工場にはレイアウト的に厳しい話だが、同時に月30tの委託生産の話があり、それならと引き受けることになった。しかし結局は、委託生産の話は流れ、設備だけがやって来た。マリンの家庭用マーガリンの販売など0の時代である。じゃまな設備をどうするんだと、侃々諤々の議論の末、仕方ないからガーリックマーガリンを充填してみよう、と言う話になった。
 それから半年後、地方の小さな生協の共同購入で信じられない売上げがあり、その年末、社内報は一面全頁を使って特集を組んだ。
 木次常務、
 「今年発表の新商品の数ある中で、お客様に案内し手ごたえのある商品は、とセールスに問えば『ガーリックマーガリン』がナンバーワン。関東エリアでは十一月生協のみで千梱以上の売り上げ。例えば名古屋量販店を見ても月当り一店舗で300ケ売れている。」
 濱松取締役、
 「競争の激しいマーガリン市場の中で我が社にとって近年にない大ヒット商品となりつつあるガーリックマーガリン。スーパー、生協、百貨店、ベーカリー、本来の外食ルートと広範囲の業態に今ガーリックマーガリンは着実に定着化しつつあります。」
 皆木取締役、
 「当社女性社員による量販店でのガーリックマーガリンの宣伝販売が今日もどこかのスーパーで行われている。一日で100ケ以上売れた店も有り、又、生協の共同購入ではマーガリンでこんなにも売れた事は未だかってないと言う。このニンニクブームの先導役は、今確実にマリンフードなのだ。」

六. 四十周年記念社内旅行
 そして会社は1997年、無事に創立40周年を迎え、記念社内旅行として社外関係企業の担当者20数名も加え、北海道2泊3日(6月20日(金)、21日(土)、22日(日))の旅行を挙行した。内容は管理部が企画を練り上げ「色々組み合わせて18コース、貴方だけのオリジナルプランを御自由に!!」と謳い上げた苦心作だった。


つづく