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社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130年⑯「中国への旅」(令和5年4月1日号)

取締役社長 吉村 直樹 

一. 泉大津工場竣工
 本社でA社向けホットケーキ生産で悪戦苦闘していた2001年に、当社第2工場となる泉大津工場が竣工した。会社創立して44年間、豊中本社工場一本で操業して来た。本社工場の敷地は、千四百坪で地目「工業地帯」だが、行政の指導が甘く、現実は住宅地の様相を呈していた。住宅地の真ん中で工場を操業していた。
 数年前より、新設の工場団地があると聞くと見学に足を運んでいた。狭い本社の限界が近づいている実感があった。大型トラックの出入りだけでも日に70台前後あった。近隣の住宅とのトラブルも絶えなかった。
 泉大津の物件は大阪府の所有だが、元々冷凍野菜の物流拠点の様子だった。中国からの輸入野菜を保管し、出荷前に簡単な加工を施していたようだったが、すでに中身は空っぽだった。工場の敷地は狭いが魅力は大きな冷凍倉庫だった。いくらか手を加えれば冷蔵庫としても使える。本社との距離も、車で45分位。ミレニアム2000年の年が暮れ、明けた一月に大阪府とも賃貸契約を済ませ、二月にPJチームを発足、四月から改造工事を開始、七月に冷蔵庫が稼働を始め、八月には本社チーズ工場を全面移転して動き出した。


 その年の秋、同業(チーズ)の社長が見学に来場されたが、「同業界でこれを半年足らずで稼働させられるのはマリンさんだけだ」と驚かれた。
 翌年(2002年)の事業計画書は言う。
 「しかし昨年のエポックは何と言っても、長年懸案の第2工場を泉大津に建設し、チーズ工場を全面移転し竣工したことであった。最新鋭の大規模工場という訳にはいかなかったが、関係者の熱意をもって、コンパクトで衛生的で効率の良い工場を作ることが出来た。10月以降はミニマリン会でも活躍し、販促活動にも多大な好影響を与えた。
 今後の課題としては、泉大津工場のシュレッドラインの増設、パウダー設備の近代化、プロセス釜の増設などがあるが、肝要なのはマイナーメーカーとして、いかに市場の隙間を発見し、その隙間を創造的に埋めて行くかである。」

二. 手形盗難事件
 泉大津工場が竣工、チーズ部門が移転し、ホットケーキ工場が24時間稼働で慌ただしい2003年12月2日の第一月曜日の朝出社すると、会長室にある創業以来の黒の大型金庫(350kg)が解体されていた。守衛からの連絡で、すでに5、6人の警察官が来社していた。中にあった手形3億4700万円と現金70万円が消えていた。解体は整然と見事で、一目でプロの仕業と思われた。すぐに社内的な調査が始まった。犯行は前日の深夜と思われたが、ホットケーキ工場は24時間稼働中だった。奥まった場所の会長室の金庫解体は内部犯の可能性も疑われた。数ヶ月前に退社した守衛が調べられた。私立探偵に3ヶ月程尾行を依頼した。探偵事務所は更に調査の延長を申し出たが断った。社長、管理部の電話に盗聴器を設置した。
 社長は会社の顧問弁護士と、社長の知人の弁護士に、どう対応すべきかと相談した。警察は、もしそんな電話があっても応じないようにと釘をさしていた。しかし捜査らしい捜査は何もしていない様子だった。人身被害がない限り、ほとんど何もしない、と色んな人がアドバイスしてくれた。相談した二人の弁護士は、驚いたことに「買い取りなさい」とアドバイスした。勿論買い取る気は全くなかった。電話の主には丁重にお断りさせた。顧問弁護士に、戦後の手形盗難事件の裁判記録の全コピーを依頼した。全ての裁判で被害者側の勝訴になっていた。弁護士からの電話はその後二ヶ月の間に三回あった。要求金額は徐々に下っていった。電話の内容は全て盗聴器で録音し、その全てを警察に持参したが、驚いたことに受け取らなかった。
 手形は全国の36ヶ所の簡易裁判所が対象になり、その全てで除権裁判を行った。営業は関係得意先に事情説明に回った。多くの会社で過去に盗難事件に遭ったことがあると話され、「それは大変でしょう」と理解を示して頂いた。
 全てが無傷で現金化したのは、盗難から一年三ヶ月後だった。犯人の姿は全く見えなかった。

  三. 中国の旅①「輸入漬物編」
 少し年度は遡るが、阪神淡路大震災のあった翌年の1996年9月より中国産漬け物(しば漬け)の販売を開始した。同年12月15日号の社内報に「マリンフードおつけもの『しば漬』登場!」の記事が掲載されている。
 「この度中国河北省の天津市で製造された代表的な京漬け物である『しば漬』を輸入・販売する事になりました。......今後、順調に展開できれば福神漬、青かっぱ、桜漬、沢庵漬等の多品種化を図る可能性もあり、当社のオリジナル漬け物を開発する位になれば面白いと思います。」
 生産は、社長の経営勉強仲間であり、寿司店の「すしざんまい」を大成功させた㈱喜代村の木村社長が手掛け、販売を依頼された。
 当社の漬け物販売は社内外を問わず違和感が多かった。それが理由かどうか、事業計画書は毎年のように状況報告を記載している。
 「販売一年間で7700梱販売した。味、価格とも評価は良好で、市場も膨大である。先入観念がなければ必ず売れる。先入観念がないのは末端ユーザーだ。新アイテム追加も検討する。」(1998年事業計画書)
 「昨年一年間で前年比110%販売したが、後半は頭を打つ状態となった。大手ユーザーとの大口商談に挑戦する。市場は目のくらむ大きさである。味、価格とも魅力に溢れた商材である。」(1999年事業計画書)
 「漬け物の販売が低迷している(前期比93.8%)。昨年末につぼ漬を発売し市場は膨大であるのに月間1コンテナーにも達していない。このままでは事業の体をなさないままスクラップ候補になりかねない。営業部に漬け物の専従者を1名配置する。」(2000年事業計画書)

四. 中国の旅②「中国工場建設プラン編」
 泉大津工場の建設(2001年夏)工事が佳境にあった頃、突如として中国ビジネス構想が浮上した。きっかけは中国産漬け物の輸入販売で、それに関連して中国出張が増えた。
 大阪工業協会等の旅行も利用し、中国々内の30ヶ所ほどの工業団地を見学した。
 ホットケーキのA社ビジネスで低コストの要請にも悩まされていた。中国でのチーズビジネス展開も魅力的だった。当時中国のチーズ消費量はわずか2~3千トンだったが、10年で10万トン、20年で70~80万トンに伸びるのではないかと思われた。(実際は現状45万トン程度。日本は35万トン)。
 2002年の事業計画書である。「本年度予定の中国ビジネスは上海(蘇州)でのホットケーキ工場建設からスタートする。中国産原材料を主体に、当面全製品を日本に輸入する。本社工場の24時間稼働は住宅地化した周辺環境から困難が続いているが、これを順次解消させて行く。」「中国ビジネスかが始動した。現在の中国のチーズ市場はまさしく東京オリンピック前夜の日本に酷似している。......中国ビジネスの一方の重要なテーマは中国チーズ市場の研究である。」
 中国々内の多くの工場団地を見て回り、蘇州のシンガポール園区が一番美しく気に入った。水道水も中国で唯一煮沸せずに飲めると言われた。4230坪の土地を2000万円で50年借款した。丁度取り引きのある「Nパックス社」が中国に進出していて種々相談に乗ってくれた。
 2002年2月1日付けで上海事務所を開設し、研究部員だった女性研究員Wを派遣した。事務所責任者は、研究部長の田辺を兼任で任命した。本社では管理部に中国課を設置した。
 3月末には中国現地法人「馬麟(蘇州)有限公司」を設立した。
 同6月に会社設立45周年記念旅行として中国上海・北京旅行を挙行した。中国は元々父が東大の支那哲文科を卒業していた関係もあり親近感があった。
 しかし、結果から先に書くと、中国ビジネス騒動は2001年に始まり、2002年にピークを迎え、2003年にあっけなく終焉を迎えた。
 漬物販売はまだ暫く続くが、A社向けホットケーキ生産は2003年末で終わりを迎えた。中国々内向けシュレッドチーズの生産販売の目論見は、香港経由でナチュラル原料チーズが無関係で入って来るルートがあるらしい、という情報を得て、一気に機運が静まった。
 45周年旅行が終わった夏に、社長のロンドン出張先に日系の中国建築会社の工場図面が届いた。GOの返事を出すばかりだったが、出来なかった。中国産小麦粉の異物混入問題も不安材料だった。
 工場用地は3年後、蘇州市が買い値で引き取ってくれた。上海駐在員Wは、2003年8月1日付けで本社研究部への異動の辞令を受け取った。Wはその後退職し、米国へ渡った。ほどなく米国人と結婚し、2児の母となり現在マサチューセッツ州ボストン郊外に在住である。

つづく