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社内報マリン

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創業130周年③「吉村又作石鹸工場」 (平成30年12月15日号)

取締役社長 吉村 直樹

一、独立
 藤川工場は順調な滑り出しを見せたが、前回述べたように、これは品川家のものであって又作の立場は技師と言うに過ぎなかった。
 自尊心の強い又作は、その立場に満足することが出来ず、姉タキの嫁ぎ先である品川家との関係を絶ってまで独立を決意する。必然的に長崎の親戚筋とも疎遠となった。  藤川工場内にあった住居も、そこから遠くない牛込区富久町へ移った。この家は平家一戸建て建具付で、借賃月二円四十銭という。
 身の回りに資産らしきものは何もなく、ほとんど裸一貫からの再出発である。周りには妻ノブと二歳の長男又一郎がいた。ノブは嫁入道具を揃えて差し出し、これを金に換えて下さいと言った。
 又作はそれを元手に四十円を工面し、簡単な製造の設備と、買えるだけの原料を揃えた。貨幣価値を考えると、現在の約百万円に相当する。工場は借家の狭い庭の片隅に確保したと推察される。
 こうして翌明治二十三年二月十一日(又作三十三歳)の紀元節の日に製造開始となった。製品は、出入りのあった車夫の泰三という者に挽かせて、兼ねてからの得意先南川商店に納めた。
 南川商店は化学工業製品の問屋筋で日本橋小舟町に店を構え、東京市内始め両毛、八王子など関東一円の織物産地を主たる商圏としていた。
 南川商店支配人から又作に宛てた手紙がある。「貴君の節操堅固なことは、素より承知いたしております。これまでの取引きについても一点の問題もありません。申し上げるまでもありませんが、東京市内において貴社製品を取り扱いたいと申す者がありましても、宜しく御判断下さいますようお願い致します。私共に於きましても御満足いただけますよう十二分に拡販いたす所存であります。」

二.発展
 明治二十五年手狭になった工場住居を隣接地に建築移転した。
 同年八月、恩師高松豊吉博士から書簡が届く。
「貴下製造練用石鹸を分析した所、当品はわずかに遊離アルカリと遊離脂肪を含むが、絹質を害する程の事は無く、又これで絹糸を練ってみたが、その結果は『マルセル石鹸』を用いたものと同様な物と認めた。よって今後なお一層製法を研究して精良品を製造して、広く業者の需要に供給されることを希望する。」
 品質の改良に伴い販路の拡張にも努力する。京都府下の丹後方面、山梨県の甲斐絹など全国の織物産地は ほぼ舶来万能の固定観念を打破しつつあった。
 その中にあって、京都西陣のみは依然としてフランス製品のみを使用し、国産品を顧みようとしなかった。明治三十年頃であった。
 ある日綿実油の仕入先商店から、石鹸原料として大豆油の提案があった。四斗樽入りで油の表面には紫色を帯びた黒い泡が一杯に浮かんでいた。
 試験的に数箱を作り、「大仏印」の商標を付して西陣の著名な染色業者に送付した。結果は好成績とのことだった。これがきっかけとなって西陣でも使用されるようになった。
 以後、舶来のマルセール石鹸は不必要となり、急速に輸入終熄に向った。
 明治三十一年夏、香川県で開催の第七回内国国益博覧会に出展した石鹸が、有功一等金賞牌を授与された。
 明治三十四年七月、山形市での奥羽六県連合物産共進会出品の羽二重(又作の石鹸で精錬した物)が一等賞、二等賞、三等賞を獲得した報告を受ける。
 明治三十六年夏、大阪天王寺の第五回内国勧業博覧会で二等賞牌を得る。
 明治三十八年秋、(日露戦争)凱旋記念内国製産品博覧会にて進歩金牌及び銀牌を授賞。

三.隆盛
 明治四十五年一月、東京府阿部知事より桐花御紋木杯壱組を下賜される。同年二月、名古屋新聞に「吉村又作氏の名誉」と題する記事が出る。
 「氏は長崎の人、幼時両親を喪い困苦の中に人となり久しく石鹸製造に従事したるが、明治十七年以来熱 心な研究の結果、肥料以外には利用法なき蚕蛹の脂肪を原料として、舶来品に劣らざる優良なる絹練用石鹸を発明し、今日にては一ヶ年の生産額約二十万円以上(現在の約五十億円)に上り、各地絹産地を益する事大なる。」
 大正三年春、東京大正博覧会で銀牌を授賞。同時に長さ六、七十センチの石鹸素地で虎の彫刻を作って陳列したが、これが石鹸彫刻のはじまりとなった。
 同年十二月、栃木県の下野日日新聞が創刊二十五年を記念した「二十五年の回顧」の特集記事の中で又作の記事を掲げている。
 「一、わが東京吉村石鹸工場主として本邦染織に多大な貢献をなしつつある吉村又作君の如きは実に足利染織講習所出身者中の異彩で、わが県人とは少なからぬ因縁を有している一人である。
 一、資性、不撓不屈にして業に熱心で、君の発明製造力がわが足利織物生産に甚大なる利益を寄与せし事は、本県産業上の恩人と言ってもよい。」
 大正六年秋、上野に開催の第一回化学工業博覧会において金賞牌を授賞。
 大正八年五月、全国染織工業博覧会から金賞を授賞。
 大正十二年九月、関東大震災被災。被害は大きかったが、幸いに火災は発生せず、破壊も一部に留まったので、秋の半ばには製造体制は回復する。但し、販売先のダメージは大きく、当面地方への営業活動に主力を注ぐのみであった。
 昭和六年十一月、又作は緑綬褒章を下賜。
 少し戻って、姉タキの嫁ぎ先の品川家のその後である。義兄九十九は明治二十年に長崎の地で病没してい た。品川家の化学工場は忠道の長男で又作の一歳年上になる真が社長となっていたが、又作独立の年の六月に死去した。従前より多病質であった。その落胆が祟ったのか、翌明治二十四年二月、忠道本人も五十二歳で没した。上海の初代総領事から農商務省商務局長にまで上り詰め、一方で種々の新工業を企画実行に移したが、その成功を見ることは無かった。

四.営業初期時代関係文書
 昭和七年五月、商工省によって「国産を以って可とする化学製品の製造元」に選定される。
 同年同月、大日本織物協会主催の第四回発明博覧会に、前例に無いこととして、初期時代の事業関係の資料一式を出陳した。
第一期 長崎工場時代(明治九年〜十七年)。
 一、明治十年〜十五年の上海原料油脂毎月相場表。
 一、上海原料綿実油搾油状況(明治十年)。
 一、原料パーム油事情(明治十三年)。
 一、石鹸製造法諸事控(明治十六年九月以来)。
 一、又新社製造所名札。
 一、又新社薬石鹸レッテル。
 一、自織支那絨緞(明治十一年製作)。
第二期 東京工場創業時代(明治十八年〜二十年)
 一、藤川工場染物報告。
 一、足利織物講習所山岡次郎先生講義筆記。
   染法記(明治十九年一月以降)。
   製造記(同)。
 配色総論(明治十九年二月以降)。
 一、足利織物講習所生徒之証(明治十九年一月二日付)。
 一、足利織物講習所月謝領収書(明治二十年度)。
 一、農商務省総務局分析課石鹸分析表(明治二十年五月)。
 一、足利織物講習所石鹸品質証明書(明治二十年六月)。
 一、山岡次郎書翰(明治二十年八月)。
 一、高松豊吉「石鹸製造の注意」筆記(明治二十年八月)。
 一、上海商同会、各国輸入石鹸商況報告(明治二十一年)。
 一、日本組紐製造会社創立定款(明治二十二年)。
第三期 絹練用石鹸完成期(明治二十一年〜二十六年)
 一、明治二十年前後の商標の一種。
   Cotton seed oil soap for silk boiling.
 一、綿実油製石鹸専売特許願審査書(明治二十一年四月)。
   特許局長高橋是清と署名す。
 一、京都染工講習所証明書(明治二十三年十二月)。
 一、練鉄製造化釜注文に関する書類(明治二十四年)。
 一、高松豊吉書翰(明治二十五年八月)。
 一、千住製絨所技師長大竹多気書翰(明治二十六年一月)。
   製絨用石鹸として初めての品質証明。
 一、馬獅子アニリン曹達工場製石鹸染料見本函入一揃
(明治二十六年前後)。
 一、染料輸入当初の陶製容器。
   媒染剤塩化クリーム入。
   アリザリン泥状品入。
(栄吉作「吉村又作伝」より)